IPSでノーベル賞受賞者の山中伸弥さんが近畿大学での、卒業式での記念講演のタイトルが「人間万事塞翁が馬」というもので、自分の生い立ちが塞翁が馬でIPS研究にたどり着いたという内容の講演で、私の生い立ちの塞翁が馬を振り返ってみたりした。
山中伸弥さんから戴いたサイン色紙が、事務所にありますが、公正証書遺言書の立て合い人となる、お手伝いした案件があり、山中伸弥さんの財団に、相続財産を遺贈するという内容のものでしたので、お礼にいただきました。
知人が私の座右の銘は何ですかと聞かれたので、この「人間万事塞翁が馬」と答えたら、その知人から後日この色紙をいただいたので、事務所に掲げています。
自分自身の今の生業になっている事を振り返ってみると、生まれてから色々な人との出会いで一喜一憂しながらも、いまがあるのだと実感する昨今です。
小学三年生の時、担任の先生と二人で北海道様似町から東京に来たことがありますが、時代的には東京タワー🗼が完成し、上野動物園のモノレールが開通した頃ですが、上京した時は、将来東京で生活をすると想像していなかった少年時代です。
高校受験は、開校一年目の国立の五年生の工業専門学校(高専)を受験するも、競争率55倍と合格するわけもなく、道立様似高校普通科に入学することとなり、のんびりした高校生活を送ることとなりました。
この高専の不合格が一番目の塞翁が馬です。
化学の科目の期末試験を済ませないで大学受験のため様似町の始発駅から列車、青函連絡船に乗り換え、上京したため、高校の担任の先生から「単位足りない、すぐ帰れ」と電報がきて、受験途中で36時間を駆けて様似町にトンボ帰りすることとなりました。
結局すでに合格していた東京経済大学に入学することとなりました。この電報が送られてきたため途中で様似へトンボ帰りしたことが二番目の塞翁が馬です。
大学入学後、ゼミナールは井尻正二さんの地学ゼミを選択して、地質学、考古学、人類学選考をして発掘、人体解剖と活動することとなりました。
就職活動は特別することもなく、自分の思想、活動のためには、会社員では成就できないとの判断から、専門職を選択して会計事務所への丁稚奉公の世界に就職しました。
就職は、当時は終身雇用の年功序列の学歴社会であったので会社員になるために、大学進学したつもりのが、専門職になることとなり、簿記も分からず、算盤も出来ないのに、会計事務所に見習いで就職することとなりました。
この一般教養の地学ゼミを選択した事で回り道したことが三番目の塞翁が馬です。
大学院は、学部は経済で法学研究科に入学するも、民事訴訟法を民訴という略語、公法と私法の区別も分からず、修士論文のテーマを商法の「合併」から、指導教授の変更から大学院と民法の「借地権」に切り替えて修了することとなりました。
この大学院、指導教授の変更が四番目の塞翁が馬です。
就職していた会計事務所の所長がバブル崩壊による経済事情から退職することとなり、38歳で、会計事務所開設独立することとなりました。
この所長のバブル崩壊の経済破綻が五番目の塞翁が馬です。
勤務していた会計事務所の計算センターの業務の一環として、コンピーターのSE(システムエンジニア)、プログラマーが花形の仕事として脚光を浴びている時代であったが、やはり税理士になるために、会計事務所の仕事とプログラム作成の仕事をしながら毎年税理士試験を受験することとなり、多忙の毎日で10年を要して何とか税理士に合格できました。
このコンピーター関係の仕事を選択しなかったことが第六番目の塞翁が馬です。
結局は人生出会いで、人に恵まれなければなりません。
反面教師という言葉がありますが、尊敬できない人とも会う機会は多々ありましたが、真似をしてはいけないと肝に銘じています。色々の経験をするということは自分の判断で悪いことは真似をしないことです。
人の目利きもうまくなりました。毎日が失敗と反省を繰り返す人生では、毎日が塞翁が馬かもしれません。
「ある時の倹約ですが我慢、ない時の辛抱」で、忍耐の忍、忍です。
馬主となったこと、所有馬が勝てないことが第七番目の塞翁が馬となりますように♪。人馬一体頑張ります。
令和7年10月31日
小関勝紀

