私がクライアントの社長と、決算の打ち合わせ時に、栃原遺跡の発掘調査に参加しているというので、栃原遺跡とは、長野県にある小海線の北相木村の遺跡かと聞き直したら、そうだというのでビックリでした。
その栃原遺跡とは、私が大学の恩師の井尻正二さんの、地学ゼミでの50年数年前の半世紀前の遺跡現場で二回参加した遺跡ですから、驚きました。
早速、その当時の写真を探してクライアントの社長に送りましたが、若い私がおりました。
中期旧石器時代以後くらいの遺跡で洞窟から人骨、鏃(やじり)、土器、動物の骨で作った釣り針などが発掘されています。
また別の事で、決算の打ち合わせで、ご夫婦で事務所に来られて、10周年というから、お祝いで食事に行きました。その席でそのご夫妻の小学生の子供が、明治時代からまだ150年くらいなのに、縄文時代がおおよそ15,000年前に一万年間以上続いた時代に、すごく興味をもち、発掘体験、石器、土器作りを体験したいと言うので、体験するイベントを探していると話されたのです。
私が、やはり学生時代に行っていた野尻湖遺跡の発掘は、今も公募して一般の人が発掘できるかはわからないが、応募すれば一般の人も参加できるはずですと話したら、すぐスマホで調べたら現在も公募で遺跡調査を行っていました。
この遺跡は、私の恩師の井尻正二さんたちが中心となって、一般公募で発掘に参加できる遺跡なのです。この野尻湖遺跡は、野尻湖の底を発掘するため、まだ雪の残っている5月ころ時期と覚えていたので、応募には間に合い参加できそうでした。
野尻湖の遺跡は、旧石器時代の石器、土器、ナウマン象の骨と発掘されます。
このナウマン象は、15、000年前まで日本列島に生息していたのです。
旧石器捏造事件がありましたが、ゴットハンドといって、日本の旧石器時代が38,000年以前までさかのぼるという歴史まで変えた事件でした。
それまでは、旧石器時代の一番古い石器は野尻湖遺跡の「月と星」という石器でしたが、また歴史が戻されました。
これも学生時代の八王子の発掘ですが、2メートル平米で縄を張り、一人ひとりスコップで掘り続け、関東ローム層が出る少しのところまで掘ります。
群馬県の岩宿遺跡を相沢忠洋という、1946年に納豆売りの青年が、関東ロームの中から土器、石器を偶然発見したので、関東ローム層も掘りました。
関東ローム層とは、酸性の強い、富士山、浅間山の火山灰からなる、地層でこの火山灰から後に人間が住み着いたという通説が覆りました。
岩宿遺跡は、縄文時代以前に人類生活の痕跡はないとする日本考古学会の定説を覆す旧石器時代の遺跡であると確認された遺跡です。現在は、ドームとなり、岩宿博物館となって岩宿遺跡として一般的に見学できます。相沢忠洋さんも、1989年亡くなったニュースを聞きました。
皆さんは、発掘作業というと移植ごて、竹ベラ、刷毛で流暢な作業しか見ていないとおもいますが、その遺物が出てくるまでただただ掘り続けるので腰、腕は痛く大変な作業なのです。お陰様で体だけは鍛え上げることができ、現在体力が持ち続けて働くことができます。
日本の中心は青森県だったという説があるが、青森県東北町で坂上田村麻呂が「日本中心」という字が彫られた碑が発見されているが、「日高見国」があったというものです。
確かに、青森県青森市で三内丸山遺跡、青森県つがる市では、「遮光器土偶」で有名な亀ヶ岡遺跡が発見されています。青森県には、文化.文明があったかもしれません。
「北海道.北東北の縄文遺跡群」はユネスコの世界遺産に登録されています。
この縄文時代は栗、胡桃などの山の幸、海の幸が豊富で、温暖であったと言われています。
我々の祖先は、戦いのない平和な時代であったのではないでしょうか。
現在の欲と金まみれの生活より、子孫繁栄を願い、食物を探して生きる生存の方が幸せかもしれません。
令和6年5月31日
小関勝紀